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2012年が始まって三週間

 年始に体調を崩してしまったこともあり、なんとなく緩やかな幕開けとなった2012年。気がつけば早くも三週間が経とうとしている。11〜12月の嘘みたいな忙しさが通り過ぎた1月は仕事もマイペースに進められる分量であり、毎日21時までには帰宅し、24時までには次女とともに就寝する毎日が続いてる。何もかもが緩やかで、その心地よさにもたれかかってしまいたくなる。

12月からソーシャルメディアをやらなくなった。特にFacebookは仕事の色合いがあまりに強すぎるので見ているだけでも気が抜けなくなってしまった。Twitterはまだ毎日見てはいるが自分から発言することは皆無になっている。唯一、mixiはまだ外部のASPサービスとの連動を残しており、ごくたまに発言したりすることもある。とはいったもののmixiでつながっているのはプライベートのごく限られた方ばかりなので、TwitterのようなダイナミックさもFacebookのようなリアルな近さも少し薄い。それは特に気にもしていないのだが、ある程度ちゃんとした形で自分の意見や気持ちを残しておこうとするのならば、やはりブログが最適だと考えた。

ここ数年、あえてブログは更新頻度を減らしていたきらいがある。その原因は、今まさにFacebookがそうであるように、あまりに仕事関係の方からのコメントや連絡が増えすぎたためである。少し八方美人的な要素が自分の中にもあって、求められるままにWebやマーケティング関係のネタを探したり積極的に書いていたりすると、さすがに疲れてきた。だってそれは僕に取って仕事なのだから。

だからTwitterに避難し、mixiで細々と続けていたのだが、仕事柄Facebookが避けて通れず、注意していたつもりがやっぱり疲れた、というのが本当のところである。で、結局帰結したのがブログなのだ。たまには仕事関係のことを書くかもしれないが、基本的にはエッセイである。日記でもない。毎日の生活の中で摘まみ上げた小さなことを少しづつ記録していくのだ。

文章をきちんと書くことは鍛錬でもある。日常的に続けておかなければ文章が下手になってしまう。少しでも長所であるところはもっと積極的に伸ばしていこうと決めた。やはり緩やかに出はあるが、コツコツと再開していきたい。



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被災地薪の送り火中止 / 大文字保存会を問う

東日本大震災の津波で流失した岩手県陸前高田市の高田松原の松に震災遺族らのメッセージを記して京都の「五山送り火」(16日)のまきにする計画が、放射 能汚染を懸念する声を受けて中止されることになった。メッセージが書かれたまき約350本は陸前高田市内で保管されており、現地入りしている「大文字保存会」(京都市)の松原公太郎理事長らが8日夜、精霊の「迎え火」として燃やす。しかし、京都市には市民から中止を批判する声も多数寄せられている。

出典:毎日jp

被災地にとって初盆となる8月、家族を亡くされた方々にとっては本当に思い入れがある夏になる。メッセージを託された薪は由緒ある京都の五山送り火で天に届けられるはずだった。しかし、思いは踏みにじられる。

被災地から届く薪に放射性物質が懸念されたからである。

驚いた。心底驚いた。僕だけではないだろう、多くの国民がこの判断に憤りを覚えたはずだ。放射性物質を含んだ灰が飛んでくる、という抗議が相次いだという。一体どれだけの数の抗議が届いたのだろう。被災地から遠くはなれた京都に、たった数十本の薪が運ばれることでどれだけの被曝の危険があるというのだ。

しかも、薪の一部は放射線検査を受け、「検出なし」という結果を得ている。

絵に描いたような風評被害である。しかも今回は農作物や食肉といった内部被曝を懸念するものとは根本的に質が異なる。なぜなら、京都に届くものは人体に影響がないだけでなく、遺族や被災者の思いを、心をのせたものだからだ。

本日、この報道がなされるや否や、京都市役所には苦情が殺到したという。

市や、中止を決めた大文字保存会に寄せられた意見は9日午後5時までに約970件に達した。同市によると、約970件の意見は「批判的なものが9割9分」という。「京都は被災者の気持ちを踏みにじった」などの批判や抗議に加え、「風評被害を助長するような声に、放射性物質の検査をしながらなぜ屈したのか」といった過剰反応を疑問視する声もあった。京都府庁にも9日午後5時までに、127 件の意見が寄せられた。大半は批判の声だった。出典:YOMIURI ONLINE


京都市は大文字保存会に対して意見ができないという。しかしながらこのような事態になる前に何かしら調整はできたはずだ。小さなクレームを処理しようとして大きな事態を引き起こす典型的な失敗例だろう。

保存会や京都市の対応のまずさは言うまでのないのだが、関西地域との意識差の大きさはあまりに大きくて同郷の関西人として残念でならない。もちろん、関東以北の人間が立派だと言っているわけではない。節電然り、被災地支援然り、まだまだ他人事感が大きいのは否めない。

僕だって何かができているわけではない。本当に小さな支援をコツコツと続けていく程度でしかお手伝いすることはできていない。そんな自分に情けなさも感じている。

復興とは名ばかりで、毎日の生活で精一杯の方々がまだまだたくさんいらっしゃることはボランティアに行った友人や被災された方からのお話で承知している。だからこそ今自分ができることはしっかりと続けていかなければならないと思っている。


ご先祖様の霊を迎え、送るお盆という美しい風習。日本人の美しい心を今一度取り戻せないものかと切に願う。

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思考の筋力

それとなく口をついた言葉について考えてみる。
ことの始まりはある業績についての歴史を調べることだった。

週末に外部スタッフや社内の同僚らと話をして各々にわかる範囲で調べてみようということになった。

最近の調べものはGoogleで検索することから始まる。それ自体は効率化を考えても悪いことではない。問題はそこからである。

そもそもネット上の情報は玉石混合であり、その取捨選択にはセンスはもちろん、基本的な知識や教養、資料を読み解く編集力も必要になってくる。効率的に得た情報をいかに体系的にまとめるか、またそれらの整合性をとっていくかが「調べる」という行為の本質なのだ。

そこがないがしろにされている。

今回調べていたことについてGoogle検索で得られた情報はどれも浅く、深く理解するためには情報量自体が不足していた。なので、そこで確認で きた文献や資料の出典をあたるのが当然の成り行きだと考えていた。現に、それらは大型書店か地元の図書館であれば手にすることができるものばかりだった。

僕は大型書店で現物を確認し、ある程度重要だと感じた箇所と、新たな文献資料を覚えて帰り、自宅でそれについて再度Google検索した。

検索は情報のふるいである。砂金と同じように何度も効率よく行うことで大きな成果を自分で見つけ出さなければならない。
その過程や手間が完全にないがしろにされているのだ。

それで調べたというのだから困る。
それが自分より年長者なのがさらに困る。
さすがに頭に来たので、少し直接的な非難をしてしまい、同僚が慌ててとりなす一幕もあった。

そのとき自分が口にしたのが「思考の筋肉」だった。
帰り道もずっとその言葉について考えてみた。
鍛え続けなければ低下し、いざというときに力を発揮できなくなる。

肉体も思考も心も無理のない程度には鍛え続けないとダメになる、
ということを自分自身に言い聞かせてもみる。
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